キルケゴールの言葉



・ 単独者として生きることは何よりも恐ろしいことだということを学んだ者は、単独者として生きることはもっとも偉大なことである、と言うにはばからないであろう。

・ 現代の不幸とは、まさに、あまりにもたくさんのことを知りすぎたために、実存するということはどういうことかということや、内面性とは何かということを忘れてしまったことである。

・現代は、本質においては、分別の時代、反省の時代、情熱を失っている時代で、気まぐれに感激に燃えても、抜け目なくすぐもとの無感動におちついてしまう。

・ 一般に、孤独への要求は、人間のうちにはたしかに精神があるということのしるしをなし、またそこにある精神がどんなものかを測る尺度である。「ただおしゃべりだけをしている俗物どもや世間人」は、孤独への要求などを少しも感ぜず、ほんの一瞬間たりと一人でいなければならなくなると、ちょうど群棲鳥のように、直ちに死んでしまう程である。このような人々は、幼児が子守歌を歌って寝かしつけられなければならないのと同じように、食べたり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、恋をしたりなどできるためには、社交という名の子守歌によって心に安心をうることを必要としているのである。しかし古代においても中世においても、人はこの孤独への要求を気づいていたし、また、それが意味するものへ尊敬をはらっていた。ところが、現代という社会そのものの時代においては、人は、孤独というものを、犯罪者に対する刑罰として以外にはそれを用いるすべを知らないほどに(おお、なんとすばらしい警句であろう!)それ程にまで、恐れているのである。たしかに現代では、精神をもつということは一つの犯罪となることは事実である。それならば、そのような人々が、つまり、孤独を愛する人々が、犯罪者の部類に入れられるのは、当然のことになるであろう。

・ 妬みは無性格性の原理として成り立つことになり、自分は無きに等しいものだといって譲歩しておいてたえず自分をかばいながら、その実なんとかみじめな境涯から抜け出て、ひとかどのものにこっそりのしあがろうとする。無性格の妬みは、否定しながらも実は自分も傑出したものを認めているのだということが自分でわからず、むしろそれを引きずりおろし、それをけなして、それで実際にそれをもはや傑出したものでなくしてしまったつもりでいるのである。現に存在している傑出物に反抗するばかりでなく、まさにきたらんとする傑出物にも反抗するのだ。

・ 妬みが定着すると水平化の現象となる。情熱的な時代が励ましたり引き上げたり突き落としたり、高めたり低めたりするのに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。それは首を絞めたり足をひっぱったりする、それは水平化する。水平化するということは、なにごとによらずひどく人目につくようなことを避ける、ひそかな、数学的な、抽象的ないとなみである。

・ かつては傑出者はどんなことでもすることが許されていたが、集団のひとりひとりはまったくなにもすることが許されなかった。いまでは、これこれの人数がそろえば一個人と同等になるのだということを、ちゃんとみんなが心得ている。そこでしごく当然ながら、どんなつまらない問題についても、頭数がそろえられる〔これを称して、いかにももっともらしく「団結する」というわけだが、これはきれいごとなのだ〕。気まぐれな思いつきを実行するというただそれだけのためにさえ、なにがしかの頭数がそろえられ、そろえばそれがおこなわれる。つまり、そろいさえすればそれを実行する勇気がでるというわけなのだ。そこで結局、かなりすぐれた天分のある人でさえ、ごくつまらない問題にもすぐに自分をほんの一員だと自覚してしまうので、どうしても反省から解放されることができず、宗教性の無限の解放を得ることができなくなる。

・ 多数の者が団結すると死をものともせず突進する勇気がでてくるとしたものだが、だからといって、それが現代では、個人個人めいめいがそれだけの勇気をもっているのだ、などと言ってすますわけにはいかないだろう。というのは、個人個人が死にもまして恐れるものがあるとしたら、それは、「ひとりで勝手なことをしやがる」という、反省が自分にくだす審判であり、反省が自分に投げつける講義であろうからだ。

・ しかし水平化はどこまでもつづくにちがいない。「つまずき」がこの世にこざるをえないのと同じように、水平化もこざるをえない。「しかし、それをきたらせる者は、わざわいなるかな」だ。