「愛の昇華.新たな救世主」



 偽善....僕の行動の、いや思惟の全て。
 ルサンチマンにすぎない。救いを求めることなど。
 過去に受けた傷が僕の全てに「否」と叫ぶ。僕はまずその傷を克服するために全てのものに打ち勝とうとした。そう、全てに拳を向けてそれを打ち砕こうとした。自分が一つでも何か実行できない時、それは自己の弱さゆえだと思った。優しさも見せられない。それも自己の弱さゆえだと言われるからだ。この結果強迫神経症になる。過去の傷によって自己の弱さをみせられ、実行できないものはその弱さにされる。
 生は苦しみか?では何のために?
 生存競争に負ければ、それは苦しみだ。その苦しみはどこまでも追いかけてくる。はらいのけようとすればますます覆いかぶさってくるようだ。それは深みにはまるからだ。勝とうとすれば一時は快感に酔いしれるかもしれないが、負けるかもしれないという恐怖心や不安はいつも自己を苦しめるだろう。
 敗者に共感をいだくか?しかしおのれを犠牲にすることは決して出来ない。勝つことは苦しみであり、それから逃れようとする哀れみは偽善だ。敗者は勝者に対しての感情は「全てルサンチマンに過ぎない」ということばに苦しめられる。何よりも自分の劣等感に耐えられないだろう。
 では全てがむなしいというのか。それは真実だ。ではどうするのか?この言葉さえ全てを無に帰そうとする偽善に過ぎないのに。
 僕はさまざまなことを知ろうとした。それぞれの真実を知ろうとした。つまり人間の救済を求めた。それによって悲しみは減ったのだろうか。いや僕の精神が矛盾に満ちている限り人を傷つけ続け、自分の心は悲しく、うつろだ。
 そうだ。ではこうしよう。全てを一つにまとめるんだ。一つ一つの傷を全て一つの袋に込める。そしてそれを全体として真理をつかむんだ。そう、一人一人僕を含めたすべての人間を救う方法を見つければいい。
 これにいつも逃げ込む。何も得られやしないのに。
 だが、あきらめろとでも言うのか。僕もお前も、誰もかれも苦しんでいるじゃないか。僕の全てを奪おうとでもいうのか。ただ生まれて来て全ての人間に哀れみをいだき、もう一度母親の胎内に戻りたいだけなのに。
 こんなことを考えていて嫌になった。いつもこうだ、いつもこうなんだ。偽善者!敗者!なんの意味もない叫び。
 ああ、全てが幻影のようだ。人通りの多い場所に動いているものは何だ。あのわけのわからない下らない連中は。そしてどこまでも続き、うごめく車の流れは人間の運命を暗示しているかのようだ。何も叫べない、涙を流すことさえ許されない。
 ベッドにはりついていた僕は静かに立ち上がった。何かを守るかのように、そして今にも壊れそうな心をそっと包み込むように。先程までは全てを優しく包み込んでいた夕日はもう沈んでいた。のら猫も自分のすみかに帰ったようだ。随分時が過ぎ去ったようだ。もう誰も彼も帰宅して夕食後のささやかな団らんでもしているころなのだろう。もう時計は9時を指している。僕は夜が好きだ。まるで誰もが昔の、幼児のころに帰ったように安らぎに包まれている。
 僕は外に出てひんやりとした風に当たってみた。ゆうべ降った雨がひたひたと静寂の中で無気味な音を立てている。まるで昼間の悲しみが今になって涙を流しているかのようだ。僕は祈った。ただ祈った。きっと誰かがこの哀れみを形にしてくれると思った。そして僕の愛する彼女ならばそれを聞きとげてくれるような気がした....。
 彼女とは半年前に会ったばかりだ。初めて彼女を見た時は体に電気が走ったかのようだった。彼女は肌の色が白くて背が小さかった。そして何より美人で優しかった。ああ君の一晩中泣きはらした後のような優しい目はまるで女神の瞳のようだ。彼女は最初はとても僕に対して優しかったのに一月前から急に冷たくなった。彼女がちらつかせる男の名前はまるで僕に対して「死ね」と言っているかのようだった。彼女も愛されすぎているのを感じて計算高くなっているだけなのだろうか。それとも、ただゲームのように遊んでいるだけなのだろうか。
 僕は愛による救済を信じた。---彼女・・・美奈といつか完全に全てを、生きる全てをわかち合うことができる。そしてそれによって全ての苦しみから救われることが出来る---そう信じていた。待ってくれよ、美奈。君は僕のことが嫌いになったのかい。前はあんなに優しかったじゃないか。愛は全てだ。それが無ければ無に等しい。実際僕は君との愛によって、この生きることも死ぬことも出来ない苦しみから救われていたんだ。君は僕を見捨てるとでもいうのか。地獄に突き落とすとでもいうのか。君が僕を見捨てるとでもいうのならいっそのこと・・・・

 一晩中涙で濡らした夜は明けた。まるであざ笑うかのような太陽は永遠の迷いの象徴として全ての人を照らし出す。朝9時、全ての人が日々の生活に向かって動き出す。そしてその動きはいまにも僕をのみ込もうとしているかのようだ。計画は今日実行する。仕方ないのさ、美奈・・・・。僕は震えているんだ、怖いんだ、全てを奪われていきそうなんだ・・・・。
 彼女は学校に通っている。今日は月曜日だ。いつも通り四時頃帰宅するだろう。僕は準備を急ぐことにした。まず本は全て焼き払った。手紙、日記、そして洋服に至るまで。僕の計算の為には一つも自分からはみ出してはいけないからだ。全てを一つに凝縮し、天に昇らなければいけないからだ。そのための思い出の品々は皆焼き払った。もう後戻りは出来ない。思い出の全てを焼き尽くす炎は生の終焉に導こうと僕の体をも焼き尽くそうとしているかのようだった。そして部屋を片付けて時が来るのを待つことにした。
 時計の針が4時を指した。さあ実行にうつそう。これは正しいんだ、人間の生存欲の必然なんだ、そう言い聞かせた。まず彼女の家に電話をしなくてはいけない。受話器を持つ手が震えている。(03)72−4626・・・・単調な呼出音が鳴る。「もしもし・・・」彼女の声だ。「あ、美奈ちゃんかい、実は今日は用事があってね、家まで来て欲しいんだ」、「いいわね、すぐ行くわ、えーと借りてた本も持っていくからね。」簡単な会話で話を終えた。彼女の優しい気遣いに少し気が引けたが、それも今となっては僕への死の脅迫としか受け取れない。さあ、全ての終焉だ。そしてすべての始まりなんだ・・・・。

 彼女が家に入って来た途端、僕は彼女の腕と足を縛り上げた。彼女は動揺し叫び声を上げたが、心配ない、すぐに猿轡でくちをふさいだ。そしてもがく彼女をベッドに置き、僕は台所に入った。狂いそうな頭だ。何もかもわからない。体は小刻みに震え完全にハイになっている。そしてよく研ぎすまされた包丁を手にとって、静かにガスの栓を開けた。そうコンロの火をつけてから火を消せばいい。狭い部屋だ。一時間もすれば二人とも中毒で静かに死ねるだろう。
 僕は部屋に入ってベッドに寝かされた彼女を見下ろした。手には鋭い包丁がある。もちろん彼女は涙を流して震えている。そして逃げ出そうともがいている。あまりに動いてうるさいのでみぞおちを殴り付けた。美奈は息を止めて苦しんでいる。絶望感と恐怖で顔は真っ青だ。僕は彼女の傍らに跪き手を合わせた。彼女は不思議そうな奇怪なそうな面持ちで見上げている。僕は祈った。天へ祈った。二人が結ばれることを、愛に溶け合うことを。そして用意した包丁で彼女の左手の手首を切った。プシュッと小さな音と共に鮮血が飛び出した。そして僕は彼女の顔の上に手首をかざし、勢いよく流れ出す血を顔にかけた。美奈は恐怖に気を失ないそうになっている。妙な快感だ。何もかも忘れて陶酔できるじゃないか。恐怖など何もないじゃないか。
 もう時間がないな・・・。そう気付いた僕は彼女の服を切り刻んで真っ裸にした。そして全身に手首から流れ出る鮮血をかけた。彼女の体は真っ赤に血まみれになってうごめいている。僕も急いで裸になった。そして包丁を手にしたまま彼女と交わった。二人とも初めての性交だ。僕はぎこちない動きをしながら手にした包丁を彼女の赤い腹の上にかざした。彼女は目を大きく見開いて最後の瞬間を待つばかりだ。間髪入れずに手を振り下ろした。ぐさぐさと何度も突き刺した。美奈はすぐに息耐えた。
 もう意識もうすれてきた。部屋の中にガスが充満してきたらしい。僕は血まみれになりながら彼女を抱き続け、恐いかかる虚無感を振り払うかのように果てた。
 消えゆく意識の中で僕は美奈をきつく抱き締めた。さあ僕達は天へと昇華するんだ。ほら見てごらん、美奈ちゃん。僕達は赤い水晶の様に完全に混じり合っているじゃないか。全人類、全生命よ。見るがいい。これが愛の形なんだ。愛の昇華なんだ。もう僕は僕でもないし、君は君ではない。僕達は一つであって、全てと同一なんだ。ああ!この恍惚感。
 さあ、飛び立とう 大空へ 宇宙の虚空の果てへ。
 僕達の真理の姿を見せてやろう。そして全てを永遠に照らし続け、全てのものの中に溶け込むんだ。僕たちこそ新たな救世主なんだ。


    by ひかる 1994/2/24