スタンダールの言葉
・恋をして私ははじめて性格の偉大さに達することを学びました。
・高邁な性格は恋愛によって更新され、鍛えなおされる。
・眼差しについて---これは貞淑な媚態の大きな武器である。眼でなんでも言うことができるが、またいつでもそれを否定することができる。なぜなら、眼差しをそっくりそのまま再現することはできないから。
・女が幸福になるための大切な、必要不可欠な唯一の秘訣は、他の人々に影響力を及ぼし、彼らにそれと気づかれずに、自分の意志を彼らに実行させることです。
・決定的な時に強い魂は自分のまわりに一種の気高い雰囲気をつくりだすが、これが幸福なのだ。
・昔の幸福の思い出はただそれだけで、現在手に入れうるすべての幸福よりも魅力があります。
・正しい才知がなければ、堅固な幸福は存在しません。
・幸福は人間の判断を明快にする。
・不幸な人間は哲学的に考えて自分の気持ちを立て直そうとする。
・愛情の問題における法則はただ一つしかない。それは自分の愛する人を幸福にすることだ。
・私は名誉にかけてお前に誓うが、結婚は、一般的に言って、男の幸福には有害であると同じだけ女の幸福には有益だと信じている。
・はにかんだり、それを克服するのに心をとられると、快楽を感じることはできない。快楽は一種の贅沢である。それを味わうには、必要品たる安心感が少しも危険にさらされないことが肝要だ。
・精神的苦痛は時とともに減少する。
・事実による推論は、あらゆる推論のうち最良のものと思われる。
・私がいまお前に、従ってほしいと思っているのと同じ忠告を、二年前に人から受けたとき、私は心の中で「冷淡な奴め!」と叫んだものでした。そしてそんなものは一言も信じまいとしました。しかし多くの不幸が(これは毎日のことだし、説明すると長くなるのでお前に話しませんでしたが)ついに私の眼を開いてくれたのです。私は自分の周囲を見廻し。人の話してくれる事実を自分で確かめ、実証的な事実に拠ってのみ自分の意見をたてようと決心したのです。私はただ一つの規則しか知りません。すなわち明晰であることです。もし私が明晰でなければ、私の全世界は崩壊します。
・人は多くのことを暗記するからではなく、自分の見るものをおおいに比較することによってすぐれた精神が養成できるのです。
・私は自己自身のために全き真実、最も苛烈な真実を望んでいる。
・情熱的な人間には立身出世が不可能だ。
・絶対の孤独がなければ、自我に対する真の注意もない。
・性格を別にすれば、人はあらゆるものを孤独のなかで獲得することができる。
・老年に堪えうる手段は一つしかない。それは名誉と熱烈な魂とだ。それがある時には、老年もたぶん青春より価値があるだろう。
・彼らが良識と呼んでいるものは老化現象の始まりにすぎない。
・仕事がなければ、人生という船に船足がなくなる。
・他人の書いた物をいつも読むばかりの勉強をしていては人間は怠惰になる。いやでもなんらかの仕事にとりかかり、たえず自分自身の素質を抽きだして創造しなければならない。
・行動がなければなんの喜びもない。
・復讐することは行動することであり、行動することは希望することだ。
・人間は、自分がそうだと信じているところにしたがって生きているのであって、本当にそうあるところに従って生きているのではない。
・自分の本当の性格を生かせない人間は誰でも、自分の力を出しきれない。
・私は、人間の形ををとる欲望の総体を性格と呼ぶ。
・確固たる性格をもつには、自分に対する他人の影響を経験したことがなければならない。だから他人は必要である。
・大胆で高慢な性格にあっては、自分自身に対する怒りから他人に対する憤激まではただの一歩である。こういう場合、激怒にわれを忘れるのは激しい喜びとなる。
・軽蔑すべき人間とは、情熱的になることができず、しかも自分の利害がそれにかかっていることを示されると、躊躇せずに悪行でもしかねない人間のことだ。
・男は欲望が多ければ多いほど暴虐に走りやすく、女は欲望が多ければ多いほど悪徳に染まりやすい。
・偽善というものは、効果をあげるためには、ひそかに行われなければならない。
・世間の言葉はまやかしです。人々は感情に負けたように見せかけながら、実際は、多少ともよく計算された利害にのみ従っているのです。そして多かれ少なかれ上手に芝居をしているのです。
・人間は自分と同類の人間と一緒にいることに感じるよ喜びのゆえにのゆえに社交的になるのだ。
・おのが真情を楽しみ恋するためには孤独が必要である。しかし成功するためには社交界で顔を広めねばならない。
・魂を気高くするのは、その魂固有の感受性です。それは魂の内部の倦怠なのです。それを攻撃するのがすべての馬鹿者たちが自然と集まってできた同盟軍で、この同盟軍があまりにもしばしば馬鹿者たちに勝利を与えるのです。
気高い魂は世間が分配してくれる若干のものには超然としています。しかしこういう魂は自分が若干のものを尊重していることをとかく人に見せてしまう弱点を持っています。そういうことがなければ世間もこの魂からそれを取り上げようと考えなかったでしょう。
この危険をさけるためには自分自身についてとくと考える必要があります。そして自分のことについて考える場合、思い違いをしやすいから、考える技術に強くならなければなりません。つまり感動のあまり、なれた小道からはずれないように正しく考える長い習慣をつけねばならないのです。
こうしたことはすべて二十一歳になったばかりの若い娘には退屈かもしれません。しかしこれが幸福への唯一の道なのです。
このことをよく頭にたたきこんでおきなさい。
・ありふれた反省であるが、そのために忘れられがちなことがある。それは一日一日感じる魂をもった人が稀になり、教養のある才人ばかりがふえてゆくことだ。
・人生のほとんどすべての出来事のなかに、高潔な魂は平凡な魂の思ってもみない行動の可能性を見てとる。この行動の可能性が高潔な魂に見えた瞬間に、その行動をすることが彼の利益となる。
自分に見えたばかりのこの行動を実行しなければ、高潔な魂は自分を軽蔑し、不幸になるだろう。人は自分の精神の能力に応じて義務を感ずるものだ。
・ 私は日の出を見た。天空がまだ夜明けの青い光に照らされている間の、いくつかの雲の効果の素晴らしいのに気がついた。このことが私に次のことを考えさせた。本当に偉大なものは少しも気取られずに、ごく素直に行動するにちがいない。そして偉大なものから生じるものはどんなにつまらぬものでも、それが偉大なものから出ているということがわかると、崇高に見え、それだけで敬服されるだろう、と。
・ 偉大な行為で、それがはじめて企てられるとき極端でないような行為があるだろうか。それが成し遂げられてはじめて、凡人にも可能だと思われるのだ。
・ 偉人は鷲のようなものだ。高く飛べば飛ぶほど見えなくなり、その偉大さが魂の孤独ということで罰せられる。
・ 人間の頭脳にはある限られた数の抽出しかない。だから偉人はある事柄では卓越しているが、他の事柄では劣っているのだ。
・ 偉大な魂はそれと人に気づかれない。隠れているのだ。普通ちょっと風変りに見えるだけである。しかし偉大な魂は人の考えているより沢山いる。
・ 力は古代においてはすべてだったが、わが近代文明においてはほとんど無にひとしい。力は下っぱの人間にのみ必要なのである。ナポレオンやフレデリック二世がうまくサーベルのお突きができたかどうか誰も問題にしまい。われわれの感心する力とは、ジャファの病院を見舞ったりヴィジルの近くで王党派軍の第一大隊にほほえみながら近づいたときのナポレオンの力である。それは魂の力だ。
・ 芸術において、自分の作品に不満な時、人間は粗野なものから粗野ならざるものに進み、入念なもの、正確なものに達する。そこから偉大なもの、選ばれたものに移り、遂に容易なものに至る。ギリシア人における、人間精神の歩みと彫刻の歴史はこのようなものであった。
・ 芸術において抜きんでるには身を滅ぼすような情熱の炎を感じたことがなければならぬ。この必要不可欠の条件がなければ、若いとき恐ろしいほど人の物笑いになったことがなければ、どんなに才気煥発で繊細な人でも、ヴェールごしにしか芸術を鑑賞することができない。見れども芸術の根本が見えないのだ。人間の眼をひくすべての他の対象に向かう時は、繊細さと素晴らしい明敏さに恵まれているのに、芸術のこととなるや、物質的な面しかわからないのである。絵画においてはカンヴァスしか見えないし、音楽においては物理的な音と、その音のさまざまな組合せしかわからない。音楽や絵画を語るときのヴォルテールがそれだ。
・ エウフィンストン氏は附言している。「なんの美徳も行なう能力のない奴隷よりは、たとえ罪を犯しても偉大な資質を備えたう野蛮人のほうがましだ」と。
これ以上の真実はない。少なくとも芸術に関しては。
・ 少しも感受性はなくても、偉大な将軍、偉大な立法者になりうる。しかし美術においては、美を手段として喜びを与えるがゆえにかく呼ばれるのだが、どんな冷やかな対象を写すにも、魂が必要だ。
・ ゆきあたりばったりに美を模写するのはただの衒学趣味にすぎない。それは自然のなかの美を拾い集める人と正反対だ。
・ 人も知るように、虚栄心が強く冷やかな魂の人々にとっては、複雑なもの、むつかしいものが美なのです。
・ 偉大な芸術家は二つのものでできている。気むずかしく優しく情熱的で尊大な魂と、勤めてこの魂にふさわしくあろうとし、また新しい美を創造して魂に喜びを与えようとする才能とである。
・ 精力的で活動的な心をもった真の芸術家は、本質的に寛容ではない。権力を握れば、恐るべき暴君となろう。
・ 自然が人間の視界に提供する無限の多様性のなかで、人間は結局、自分の幸福追求の仕方と類似した様相にしか注意を向けない。グレイは荘厳な場面しか見ないし、マリヴォーは繊細で特異な視点しかとらない。その他の全ては退屈なのだ。凡庸な芸術家とは、幸福も不幸も強く感じないが、それらをありふれた事柄に見いださないか、あるいは自然の模倣を自己の芸術としているのにその自然の対象のなかに幸福や不幸を見いださない人間のことだ。
・ 芸術家はめいめい自分の流儀で自然を見るべきである。他人の、そしてよくあることだが相反する性格の人の流儀を採用することほど不合理なことはあるまい。自分の流儀で自然を見ていたら、コレッジオの弟子のカラヴァジオやミケランジェロの模倣者アンドレア.デル.サルトはどうなっていただろう、とある峻厳な哲学者が語っている。それにこしたことはないが、それは、換言すれば、全ての芸術家が優秀な人間であることを要求するのと同じだ。嘆かわしいことだが、ある時期までは、弟子は自然のなかに何も見ないのが真実だ。まず第一に彼の手が服従し、それから彼の師の採用したものを自然の中に識別しなければならない。ひとたび目隠しが落ちると、彼になんらかの才能があれば、自分と同じような魂の人々をを喜ばせるべく、今度は自分が写すべき事物を自然のなかに認めることができるだろう。そのための大きな困難は、魂をもたねばならぬということだ。
エクスプレシオン
・ 表現は芸術の全てだ。
表現のない絵画は眼を一瞬楽しませるイマージュにすぎない。画家は確かに彩色、デッサン、遠近法などを自分のものにしておかねばならない。そうでなければ画家ではない。しかしこれら従属的なものの一つを完成してそこにとどまるなら、それは哀れにも手段を目的と取り違え、自分の生涯の職業を台なしにすることになる。......
表現によって、絵画は偉大な人物たちの心臓に脈打つ最も偉大なものと結びついている。『ジャファにおいてペスト患者に触れるナポレオン』。
・ 絵画を愛する人の夢想には、音楽を溺愛する人の夢想におけるよりも多くの高貴さが混じっている。絵画に理想美があるからだ。音楽に理想美を感じることはずっと少ない。卑俗な顔と『アポロン』の顔は即座見わけられる。しかし『秘密結婚』におけるパオリーノの「デー.シニョーレ」と同じ感情を伝えながら、それより高貴なあるいはそれほど高貴でない曲もある。音楽はわれわれを音楽とともに運び去る。われわれは音楽を判断しない。絵画における喜びにはいつも判断が先行する。
・ 音楽と呼ばれるこの言語の表現は、いうならば、知性を通過せずにまっすぐ心に赴く。それは直接に苦痛や快楽を生み出す。
・ 音楽は官能の喜びを生じさせなければならない。
・ すべては音楽に関する議論ほど馬鹿げたものはない。それを感じるか感じないかどちらかで、それがすべてだ。
・ 朝、あなたがモンソー公園を散歩していて、緑の茂みに一人ですわり、誰にも見られていないのを確かめ、本を取り上げたところが、突然近くの屋敷から聞えてくる楽器と声音の調べに気をとられたとしよう。そして美しい曲がはっきり聞きとれたとしよう。二、三度はあなたは読書を続けられたとしよう。しかし無駄というものだ。あなたの心はついにはすっきりひきずられ、あなたは夢想に陥ることだろう。二時間後、馬車に飛び乗った時、その性質があなたによくわかっていなかったのに、しばしばあなたを不幸にしていたひそかな苦悩が軽くなっているのを感じることだろう。あなたは感動し、自分の運命に今にも泣きたくなるだろう。あなたは愛惜の念なのだ。彼らはもはや幸福になりえないと思う。愛惜の念をもつ者は、かつて彼が味わった幸福の存在を感じている。そしてやがて再びその幸福に手が届くかもしれないと思うだろう。良い音楽は誤まつことがない。われわれの心に食い入る悲しみを捜し求めて、まっすぐに心の奥底に赴く。
・ 良識と理性と節度をもってこの世の最高の音楽を好む賢明な連中よりも、できの悪い音楽を情熱的に愛する人々の方がずっと趣味がよいと言えるだろう。
・ 芸術は人を慰めるためのものだ。魂に憂いのある時、人生の秋の日の悲しさが初めて訪れる時、田舎の家々の生垣の背後に不吉な幽霊の現れるように、疑惑の心のおこるのがわかる時、そんな時は音楽にすがるのがよい。
・ 残念なことだが、たぶん真実でもあること、それは、音楽においては理想美が三〇年ごとに変るということだ。
・ 精神的な面について言うと、モッツァルトはいつもその必ずその天才の渦巻く中に、おのれとともにやさしい夢みがちな魂を押し流し、感動的でもの悲しい心象でその魂をいっぱいにする。時には彼の音楽の力が強いため、心に浮かんだ心象がきわめて漠然としたまま、魂のなかに突然憂愁がはいりこみ、溢れ出るように感じられることがある。ロッシーニはいつも人を陽気にする。モッツァルトは決して人を陽気にしない。彼は生真面目で、しばしば悲しみに沈んでいるが、正にその悲しみのゆえになおいっそう愛したくなる恋人のようだ。こういう女性は少しも人に強い印象を与えることができず、猫かぶりと思われるが、あるいはひとたび人を感動させると、深い印象を与え、魂をすっかり永遠にとらえてしまうかどちらかだ。
・ 慎重さは音楽を殺す。一国民において情熱が強ければ強いほど、反省や分別の習慣が少なくなり、人はいっそう音楽を愛するようになる。
・ 悲劇は偉大な情熱の描写であり、情熱的な人々に喜ばれねばならない。喜劇は滑稽味の描写であり、社交界の人々に喜ばれねばならない。
・ 人間は、心で考えている相手よりも、自分のほうがすぐれていると感じた時、微笑む。
・ 私には文筆家にも軍人とほとんど同じくらい勇気が必要だと思われる。後者が病院のことを考えてはならないように、前者もジャーナリストのことを考えてはならない。
・ 作家と呼ばれる動物もこのようなものだ。書くという玄妙な仕事を味わった者にとって、読むということはもはや二次的な楽しみにすぎないのだ。
・ 最上の文体とは、文体のことを忘れさせ。その述べる思想をできるだけ明瞭に浮き上がらせる文体である。しかし真理であろうと誤っておろうと、思想が必要です。
・ 私はただ一つの規則しか知りません。文体は明晰すぎることも、単純すぎることもないということです。
・ 実際は読者の精神を誤った思想にしか導かない美辞麗句よりも、悪文で紹介された真理のほうを私は好みます。
・ あえて簡潔な文体をもちうるのは偉大な魂だけである。だからルソーは『新エロイーズ』であんなに空虚な美辞麗句をならべたのだ。その結果三十歳になれば読むにたえなくなる。
・ ものを書くとき自己を抑えることを学ぶこと、自分の文体を刈りこむこと、さもなければ第二義的なもののために要点を忘れてしまう。
・ きわめて曖昧な、明晰ならざる文体は、思想を傷つける。
・ 文体--優雅さはエネルギーの犠牲において獲得される。
・ 思うにそれがなんであろうと、なにかのジャンルで偉大になるには、自己自身でなければならない。不滅の書物は、文体のことなどほとんど考えずに書かれたのである。私の想像では、自己の観念に刈られた著者が自己を解放するために書いたのだ。気取りは、これに反し、著者と読者の間に壁を設ける。それはすべてのものに下劣なニスを塗る。
・ 世に真の学問は二つしかない。第一は人間行為の原因を知る学問。ひとたび人間行為の真の原因を知るなら、諸君はその結果が諸君にとって幸福となる行為をさせるような動機を彼らに提供するべく努めることができるだろう。......有用な学問の二番目は論理学つまり幸福への道を間違わない技術である。.......したがって私は全哲学を人間行為の原因について考え違いをせぬこと、推論つまり幸福に向かって進む技術において誤たぬことに帰せしめる。
・ 哲学とは人を幸福にする技術である。
・ 征服者としての外国人に対する反抗は全て正当であり、またそれが国民の第一義務である。
・ 異邦人とは、たまたま山河によってわれわれから隔てられている人のことではなく、その主義、願望、感情と対立している人のことだ。
・ 政治はいつも美をそこなう。それは政治が最大多数に働きかけようとするからだ。
・ 世間では、金が自我の一部をなしている。金はほとんど全自我とも言える。
・ ゲーテやその他のドイツの天才達は皆、金をそれ相当に評価している。六千フランの年収がないかぎりは財産のことを考えておればよい。そして年収がそれだけになればもう財産のことを考えてはいけない。馬鹿者のほうはゲーテのような感じ方や考え方の利点が理解できない。一生涯、金によってしか物事を感じず、金のことしか考えない。こういう二重投票のからくりによって、社交界では散文的な人間が高潔な心に打ち勝つように思われる。