単独行
汽車に別れて閑散な田舎のバスへ、
そしてその古い車を最後の客として下りて、
山の部落から梅雨時の雨の中を
ひとり歩き出す私にゆくては遠くかつ高い。
濡れた小みちはごつごつになり、嶮しくなり、
見おろす谷はしだいに深く、
断崖を吹き上げてくる雲霧の底で
瀬音は寒くさびしく淙々と鳴っている。
何不足ない晴れやかな明るい家庭や
静かな、物思わしげな書斎をあとに、
なんのためにこんな旅だと人は言うのか。
しかし此の谷、此の雨、此のきりぎし、
びょうか
鋲靴に堅く険阻な此の山みちと無人の世界、
こういう物をこそ私は憧れ求めて来たのだ。
此の世の甘美な強靱なきずなを断って
いつかはひとりの内心へ帰ってゆく孤独の道---
たまたま試みるこんな山行が、
私にはその道の象徴のように思われるからだ。
自分の窮極の時を予感して
むしろそれに親しむようになった者に、
もう登山は昔のような意味を持たない。
それはもはや単なる楽しみでも冒険でもなく、
非情の美にかこまれた孤独の境地で
おのが真相と対決するきびしくも澄んだ体験だ。